弥勒谷十三仏
柳谷楊谷寺へ向かう道路の浄土橋の分岐点にある、弥勒谷十三仏。
右へゆけば、柳谷観音に向かい、左へゆけば御谷神社や乗願寺に向かい、さらには天王山への登山口があります。
岩壁に、不動明王、大日如来、地蔵菩薩など13体の仏様が安置されています。
十三仏信仰は、供養によって現世の安楽、極楽浄土を願うという民間信仰で、室町時代から江戸時代にかけて盛んになったようです。
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柳谷楊谷寺へ向かう道路の浄土橋の分岐点にある、弥勒谷十三仏。
右へゆけば、柳谷観音に向かい、左へゆけば御谷神社や乗願寺に向かい、さらには天王山への登山口があります。
岩壁に、不動明王、大日如来、地蔵菩薩など13体の仏様が安置されています。
十三仏信仰は、供養によって現世の安楽、極楽浄土を願うという民間信仰で、室町時代から江戸時代にかけて盛んになったようです。
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投稿者 河合靖之 : 18:36 | コメント (0) | トラックバック (0)
名僧・法然の石棺に異変がみられたのは、安貞二年(1228年)の一月二十日。法然が世を去って十六年目のこと。
法然の晩年は、奈良や叡山の仏教集団から迫害が絶えず、それは死後にも及んでいた。
特に叡山の衆徒は、法然が宗敵、いつか墓をあばき遺体を鴨川に捨ててやると執念を燃やしていた。
危険を感じた弟子たちは、京都東山の大谷の墓から石棺を取り出し、嵯峨・二尊院、さらに、弟子の一人、来迎坊円空のいる太秦の広隆寺へ移して難を逃れた。
異変は、ここで起こった。
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投稿者 河合靖之 : 13:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
保元元年(1156年)、粟生野の里(長岡京市粟生)にも春の訪れが日増しに感じられ、枯れ草のあいまには既に若草が顔を出していた。とはいえ、日が暮れると、まだ寒く、人の出歩く姿はぷっつり途絶えてしまい、静まりかえった。
この里に、高橋茂右衛門という人がいた。
家は代々の庄屋で、近在でも一、二を争う家柄だった。
だんなさんらしく温厚そのものだったが、人を見る目は厳しく、心の奥底まで見通すほどの鋭い観察力を持ち合わせていた。
ある夜、かなり遅くなって、この茂右衛門宅の戸をたたく者がいた。
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投稿者 河合靖之 : 15:00 | コメント (0) | トラックバック (0)
「今はお国の非常時。迷信のため、食糧増産が出来ないようなことがあっては、それこそ一大事だ。あの古墳にクワを入れて耕そうではないか」
乙訓村今里(長岡京市今里)の青年団員らが、熱っぽい口調で、「今里大塚古墳」の開墾を主張した。(昭和十七年三月、太平洋戦争突入三ヶ月後のことである。)
国をあげて食糧増産が叫ばれはじめ、学校の校庭さえイモ畑にとすすめられるなか、青年たちの叫びも当然のことであった。が、村人たちの反応は冷たかった。
「あの古墳は、”乙訓の主”が眠るところじゃ。」
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投稿者 河合靖之 : 21:30 | コメント (0) | トラックバック (0)
空海が、乙訓寺の別当(管長)に任ぜられたのは弘仁二年(811年)の晩秋。
京の都から、旧都・長岡京の乙訓寺に着いた空海は、思わず「これはひどい」と、絶句した。
奈良の東大寺と並ぶ当時の名刹は、平安京への遷都もあってカキは倒れ、堂は雨漏りするほどに荒れ果てていたのだ。
二十六年前に、桓武天皇から謀反の疑いで乙訓寺に幽閉され、憤死した早良親王の怨霊がこもっているような感じさえ漂わせていた。
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投稿者 河合靖之 : 21:29 | コメント (0) | トラックバック (0)
慶応年間。世間は勤皇か佐幕かであわただしく動いていたが、乙訓地方の農民にとっては、それどころではなかった。
政体が変わるかどうかよりも、もっと重大な危機に立たされていた。
その年にかぎって、どうしたことか、田植え時期にはいったというのに日照り続き。
水田は、カラカラに干上がり、ひびさえ入っていた。
「頼りは乙訓寺の竜神さまに祈って、雨を降らしてもらうよりない」
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投稿者 河合靖之 : 21:25 | コメント (0) | トラックバック (0)
武門の誉れ高い宇都宮城主から一介の修行僧へ、宇都宮頼綱があざやかな転身を遂げてから早や三十有余年になる。
蓮生、つまり、頼綱はすでに七十歳を数えていた。
髪も白一色に変わった。
ひたいに刻まれる曲線は、波乱の人生の余韻をなお残している。
ようやく悟りの境地に到達したというべきか。が、自身は、
「これでよいのだろうか、修行はまだまだではないか」
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投稿者 河合靖之 : 21:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
海抜六百三十メートル、樹齢三百年以上の大木がうっそうと繁る。
昼なお暗い西山連峰の一角、釈迦が岳山中に、古刹善峰寺の甍(いらか)が見える。
五月から十月までの第二日曜には、全国各地から信者、観光客らが千人近く訪れ、境内を賑わす善峰寺。
そのお目当ては、神経のやまいに、”霊験あらたか”という薬湯である。
今から一世紀前の初め、寺の住職・西光順師は夢まくらにお釈迦様が立つのをみた。
お釈迦様は、善峰寺西方二キロの山中にまつる石の座像(高さ1.3メートル)である。
「悩める民を救うため汝の手で、山奥より下山する」という。
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投稿者 河合靖之 : 21:22 | コメント (0) | トラックバック (0)
京都の謎には、数々あるが地名の成り立ちの一つに地名の起こりがある。
京都、乙訓、今回はこの”乙訓(おとくに)”についての一説である。
ときは、日本の歴史が、まだヤミのとばりのなかにあるむかし。
昔の話しである。
丹波の国に、四道将軍の一人・丹波美知能宇斯王(たにはみちのうしのみこ)が住んでいた。
彼には、比婆須比売命(ひばすひめのみこと)、弟比売命(おとひめのみこと)、歌凝比売命(うたごりひめのみこと)、円野比売命(まどのひめのみこと)という年頃の四人の姫君がいた。
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投稿者 河合靖之 : 21:21 | コメント (0) | トラックバック (0)
天王山の山すそに広がる円明寺村。
昔、八月から九月へ、実りの秋を前に日照りが続くと、村人は竜神をまつる「竜王神社」に集まった。
「あーめー、たーまーえー。あーめー、たーまーえー」
本殿をぐるぐる回りながら、”雨ごい”をしたのである。
この円明寺村は水利が悪く、村人はたえず水に苦しんでいた。
ただでさえ水不足なのに、少しでも日照りが続こうものなら、田んぼはたちまち干上がってしまう。
”雨ごい”の祈りは、まさに生活をかけたものだった。
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投稿者 河合靖之 : 21:19 | コメント (1) | トラックバック (0)
「おや、橋を渡るのに銭がいるのかや」
「一文払わないと、渡ることはまかりならぬと、強そうな番人が見張ってますよ」
旅人たちは、びっくりして顔を見合わせた。
いずれも、それほど立派な身なりではない。
大きな風呂敷を背に負った行商人や巡礼、破れ袈裟のお坊さんなど。
裕福そうな旅人が”一文銭”を払い、ゆうゆうと渡っていくのをうらやましそうにながめていた。
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投稿者 河合靖之 : 21:18 | コメント (0) | トラックバック (0)
奥海印寺地域に、下海印寺の地域が三角形に食い込んでいた場所がある。
以前は、そこにはしめ縄がはられていた。
いま、ふたつの”石”がまつられているこの場所は、空き地とも、なんともいえない場所だけど、下海印寺の人たちは毎年十二月八日と一月八日に、お神酒をささげて祭りを営んでいたようだ。
なんとも、不思議なこの場所を、奥海印寺の人は「にじり込みの神」、下海印寺の人は、「境神」として、祀っていた。
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投稿者 河合靖之 : 21:16 | コメント (0) | トラックバック (0)
昔から水の美味しい地域といわれている乙訓の地。
今回は、ここ京都、乙訓にまつわる名水、といっても霊験ある「お水」についての話しである。
時はむかし。
「万病にきく霊水が乙訓にあるそうな」
「なんでも、むかし天皇さまが、その霊水を飲んで、不治の病をなおされたとか」
こうした噂が近畿一円に広がった時代がありました。
いまから77年あまり前の大正15年のこと。
難病に悩む人たちが、この霊水「明星水」をいただこうと各地から草深い乙訓にやってきたわけです。
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投稿者 河合靖之 : 21:14 | コメント (0) | トラックバック (0)
元禄十五年(1702)暮れ、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、太平になれた民衆をおどろかすとともに、忠義の士よと大きなかっさいを浴びた。
だが、その陰には運命のいたずらにほんろうされ、悲惨な最期をとげた人たちがいた。
もと赤穂藩士・萱野三平(早野勘平)の義父与市兵衛もその一人。
与市兵衛は、娘のお軽を愛したがゆえに浪人し、漁師みたいな生活をしている三平が哀れだった。 「なんとかもう一度世に出したい」と思い悩んでいたのだ。
そうした折り、旧主のあだ討ちのうわさを聞いた三平は「なんとか同士に加わり、武士の一分をたてたい」と、その条件になる御用金をつくりたいとあせっていた。
こうした三平の悩みをみて与市兵衛は、お軽を祗園に身売りさせることを決心した。
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投稿者 河合靖之 : 18:10 | コメント (0) | トラックバック (0)
「うム来たか」
調子筑後守は、家臣の報告に大きくうなずいて、床儿(しょうぎ)からたちあがった。
ころは江戸時代。
交通の要、西国街道と丹波街道の分岐点、いまの長岡京市調子八角の街角で、筑後守が待ち受けていたのは、参勤交代の大名行列だった。
「下に〜下に〜。」供ぞろいも華やかに通りかかった大名行列に、筑後守は「待たれい」と大手をひろげて立ちはだかった。
「なにやつ。無礼であろう」と大名の家臣が刀の柄に手をかけて詰め寄り、まわりは緊迫した空気につつまれた。
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投稿者 河合靖之 : 16:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
競馬をする人というのは、やはり馬のクセなどを見て知恵を出して投票するのだろうから、この馬ノ池に関する話しから何かを感じられるのではないか。
落馬しても、またすぐに乗って、最後には儲けた訳なのだから、金運が上昇しそうな話しではないか。また、棚からぼた餅とすれば、宝くじへの効能があったりする。かもしれない。
ときは、平安時代の末期。近衛府将監(このえふしょうげん)で下野武正という武士がいた。
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投稿者 河合靖之 : 17:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
円明寺の里、樹木がうっそうとおい茂る一角に、小さな社がる。
近郷近在から信仰を集めていた小倉神社の参道沿い。
そのむかし、よく晴れた秋のある日。里人の一団がこの小さな社にやってきた。
社殿の前で伏しおがむと、小石を拾い始めた。
小石を握りしめて「今年も豊年満作、無病息災で、過ごせますように」
と、いったかと思うと、ビューンと社殿に投げつけた。
一人ではない。次から次へと、里人は石を拾っては投げつけた。
神さまに石を投げつける、一般の神社もうでとはウラハラの異様な光景だった。
「さあ、こらからが本参りじゃ」
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投稿者 河合靖之 : 10:18 | コメント (0) | トラックバック (0)
阪急電車なら、長岡天神駅と大山崎駅の中間地点、阪急の新しい駅が出来るといわれている場所。
住所でいうと、京都府乙訓郡大山崎町円明寺「円明寺が丘団地」の広がるところに“葛原(かつらはら)”という地名がある。
この葛原、桓武天皇(781〜806)の皇子・葛原親王ゆかりの地といわれている。
葛原親王(786〜853)は第三皇子とも、第五皇子だったとも記録されているが、大山崎に河陽離宮をおいた嵯峨天皇の異腹の兄弟であり、四品治部卿から大蔵卿、弾圧尹、中務卿など、当時の朝廷政府の職を経て、一品(第一位の親王)にまで昇進した。
愛人が多く、子も多かった桓武天皇の皇子の中でも、エリートだったわけだが、王朝の権門にこびるようなことはなく、また、権門をカサにきることなく、いや、後続嫌い68歳の一生を終えた。
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投稿者 河合靖之 : 14:02 | コメント (0) | トラックバック (0)
古来から、桜花は日本人の象徴とされている節がある。
盛衰のあざやかなコントラストが人の世のあわれにも通じるのだろうか。
その盛りは、けんらんと輝き、人の目を奪う。
そして散りぎわはまたいさぎよく未練を残さない。
櫻花を愛した文人は数知れない。
放浪詩人、西行法師(1118〜1190)もその一人だろう。
西行は、鳥羽上皇に仕えた武士だった。
俗名は佐藤兵衛義清。
宮中護衛が任務だったが、俗世間のいさかい、身内の不幸などを目の当たりに見て、無情を深く感じたという。
二十三歳の若さで出家を決意し「お父さん、行かないで」と袖にすがる四歳の女の子、妻を振り切って都を離れた。
その足で訪れたのが、勝持寺(通称・花の寺)である。
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投稿者 河合靖之 : 15:56 | コメント (0) | トラックバック (1)
初詣でご紹介しました大原野神社。抜け道を通ると勝持寺に抜けることが出来ることは以前ご紹介しました。
今回は、毒蛇退治と役行者の伝説と、花の寺のご紹介です。
そのころ、この辺りでは、里人が寄れば、毒蛇のうわさでもちきりだった。
「山から姿をみせると、女、子どもをさらっていく」「田畑を荒らし、とりいれたばかりの米もやられた」 恐ろしさに、ほおは引きつり、口さえゆがむ。毒蛇は、農民の平和な暮らしをおびやかす魔物であった。
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投稿者 河合靖之 : 17:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
癒しの環境と京都の寺社仏閣や古刹、そして古の名所や旧跡が点在する大原野。
このヒーリングスポット大原野には様々な伝説がある。
<いまは昔、竹取の翁(おきな)というもの有りけり……>
平安時代の説話「竹取物語」(たけとり物語)。
月からの使者”かぐや姫”をめぐる、美しくも悲しいロマンは、あまりにも有名だが、実は、この物語の舞台は京都市西京区大原野の竹林だった。
と、いう節がある。
今日は、その晴天の、京都府西京区大原野に向かってみた。
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投稿者 河合靖之 : 16:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
肩こりからくる頭痛などに効果てきめん。という噂もある場所。
とてもリラックスできるスポットのご紹介です。
そこは、亀岡市篠町と京都市西京区大枝の境界線付近の山中。「首塚大明神」としるした小祠。(京都市内から写真の老ノ坂トンネル手前を左折)
鬼退治の伝説に基づいて建てられた酒呑童子の首塚である。
樹齢何百年という杉、松がうっそうと茂り、昼間でもうす暗い。
山あいを流れる清水の音がかすかに静寂を破る。そしてこの場所では幽鬼がただよい、伝説を語るのに、ふさわしい世界をつくり続けている。
むかし丹波の大江山
鬼ども多くこもりいて
都へ出ては人を食い
金や宝を盗み行く
今は懐かしい唱和。
子どもたちの空想の世界で、鬼どもはおどり、はね、恐ろしい地獄絵図を描く。
そこへあらわれるのが、正義の味方”月光仮面”ならぬ源頼光。
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投稿者 河合靖之 : 16:24 | コメント (0) | トラックバック (0)
JR大山崎駅の改札を出ると、左側にあるのが「妙喜庵」。
山崎の土地は、京都のような賑わいを「油の販売」にみせており、「山崎の合戦」以降に、秀吉が茶会を開いていた庵。
その様に以前に聞いたことがありましたが、コメント欄にいただいた、まきさんのご質問から興味がわいたというわけです。
しかし、残念ながら「拝観の御申し込みは、まずは必ず往復はがきにて拝観御希望の日の1ヶ月程度前に、申し込んでください。」とのこと。
今回は、外観とご近所にて聞き込みをすることに致しました。
(なお、中に入りましても写真撮影は禁止されております)
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投稿者 河合靖之 : 15:57 | コメント (0) | トラックバック (0)
「ひょうざえもーん ひょうざえもーん はようかえしてくれーえ」
その昔、時代は江戸末期の天保(1830〜1844年)のころ。円明寺村(大山崎町円明寺)に農業を営む兵左衛門の家が火事で焼けた。兵左衛門は、どうして家を直そうかと考えあぐねた末、先祖代々耕してきた山伏(円明寺の小字名)の土地を、同じ村の弥衛門に買ってもらうことにした。
その次の日からだ。弥衛門の夢まくらに大日如来が立つようになったのは。
そして如来は呼び続けた。
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投稿者 河合靖之 : 15:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
円明寺村(大山崎町円明寺)は円明寺川(現小泉川)べりの河原に、子供のいのちを守ってくれるという地蔵さんがまつられていた。
そのいわれは、わからなっかたが、“大日如来地蔵”と呼ばれていた。
江戸時代はじめのころの話。
出産の予定日を過ぎた村の若妻が苦しみだした。
まる一日陣痛が続いたが、生まれない。
このままでは、母子ともにいのちがあぶないと、気が気でない。
「このうえは、あのお地蔵さんにおすがりするしか手だてはあるまい」
必死の願いをこめて、家族と村の女衆たちが、“お百度”をふんだ。よほどの難産だったのだろう、その間も若妻の苦しみは続いたが、ちょうど三日目の朝、“お百度参り”が通じたのか、玉のような赤ん坊が元気な産声をあげた。
「やっぱり、あのお地蔵さんのおかげ。お礼参りに行かなくては」
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投稿者 河合靖之 : 10:08 | コメント (0) | トラックバック (0)
初詣の際にご紹介しましたが、この「えごま油」の発祥地でもあるのです。
時は、貞観元年(858)、清和天皇が即位されたころの平安の都は、群盗がはびこり、治安が乱れていた。
「昨夜も、御所から遠からぬところに、物盗りが現れ、何人もの人が殺されたそうですよ」
こうした話が宮中でも、まちなかでもかわされ、いつしか天皇の耳にも達した。
《民を安じるには、新しい神様を迎えて、王城の地を譲ってもらうよりない》
天皇は、いつしかそう思われるようになっていた。すると、ある夜のこと、天皇の夢まくらに白衣の“人物”が現れ
「われは、宇佐の八幡大菩薩なり。われを王城の地に迎えるべし」と告げて、かき消えた。
夢から覚めた天皇は、さっそく名僧の誉れ高い南都大僧正の行教を召して、夢のお告げを話した。
「それぞ、豊前国(大分県)にまつられている八幡さまの化身でございます。私がまいりまして」
行教は、そう説明するとただちに、豊前国に旅立った。宇佐八幡宮に参籠九十日目、神託がおりて、行教は八幡大菩薩の分神を奉じて帰洛の途についた。
幾十日が過ぎて、行教が都を臨む大山崎に着いたのは夕方であった。ふと行教が神振山のあたりをみると、薄ヤミのなかに、そこだけ“御照映”が差し、神々しい光を放っていた。「あの地は、どういうところか」
不思議に思った行教が、村の古老にたずねると「嵯峨天皇の離宮があった場所で、聖地です」という。
行教が、その地を訪ね、村人から借りたノミで岩をうがつと、清水がこんこんとほとばしり出て、かぐわしい香気がたちこめた。行教は二度の不思議に、さっそく天皇に使いを出し、このことを伝えた。
天皇もこの話に大いに心を動かされ「奇しきことである。それほどの聖地なら、都に分神を持ち帰らずに、その地におまつりすべし。当地は西国から入ってくる都のノド首にも当たる。そこから京都をお守りしてほしい」と、大山崎の地にまつることを命じられたという。
やがて、宇佐八幡宮に模した神殿が建てられ、分神がまつられた。大山崎の村人は「立派な神様をお迎えできて、こんなうれしいことはない」とお供えもチエをしぼった。そのとき、荏胡麻(えごま)の種から油をしぼり出すことを発見、お灯明として神前にささげた。
離宮八幡宮の縁起であり、植物から油をとったはじまりといわれている。油は宮中にも献上され、天皇は「世の中を明るくしてくれた」と大層お喜びだったという。
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投稿者 河合靖之 : 11:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
子どもの、受験・入試シーズンには特に賑わう、学問 の神さま、天満宮。
特に乙訓の地では、長岡天満宮が賑わいを見せる。
今回はそのご神体について
時は、延喜元年(901)平安の京で政変が起こった。
藤原一門を抑える人物として、宇多天皇に信任されていた菅原道真公の左遷である。
「右大臣道真公が、左大臣藤原時平のざん言で、筑紫の太宰府にお流されになるそうだ。おいたわしいことよ」
人々の道真公を惜しむ声は、たちまち、京の近辺に広がり、長岡にも政変の話しが伝わってきた。
そのころ、乙訓寺に付属した長岡精舎の坊官に、中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房の三人がいた。
この三人は、道真公の人柄に深くひかれていたので、ただちに京にのぼり、配所までの供を願い出た。
道真公は、三人を供に京を離れたが、、長岡まできたときに、だんだんと遠のいていく平安の都をのぞみ、惜別の情にうたれて思わず涙ぐんだ。
宗則ら三人も道真公の心中をおもい、ただうつむいて、おえつがもれるのをこらえていた。
まわりには榊が生え、その青々とした枝が、いっそう悲しみを誘った。
道真公は突然、榊の一枝を折ると、
「われ、身は筑紫におもむくとも心はこの地にとどまるべし。その証しに、この枝はこの地に長く栄えるだろう」といって、地上に突きさした。
その枝は言葉通りに生え茂り、いまも長岡天満宮の境内は榊に囲まれている。
筑紫の太宰府に着いたあとも、宗則ら三人は、かいがいしく道真に仕えた。
三人の誠心は、道真公を涙ぐませるほど感激させたが、
一方では「わたしは、もう都に呼び戻されることはあるまい。私とともに将来ある若者を筑紫の田舎で朽ちさせてはいけない」と思うのだった。
意を決した道真公は、ある日三人を呼び、都へ帰るように申し渡す。
三人は、「私たちは、道真公のお側に仕えるだけで満足なのです」と、この地にとどまることを願ったが、道真公の気持ちは変わらなかった。
やむなく、太宰府を去る決意をした三人に、道真公は自身のお姿を自ら彫った一寸八分(約6センチ)の木像を贈り、名残を惜しんだ。
それから、約二年後の延喜三年(903)、道真が太宰府の配所で寂しく世を去ったと聞いた宗則らは、この木像を御神霊として長岡精舎にまつった、
長岡天満宮のいわれであり、いまにいたるまで地元はもとより、広く信仰を集めている。
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金運アップといえば大山崎町の宝積寺。
名前も「宝寺」、「お」をつければ「お宝寺」ではないか。
昔。養老7年(723)、奈良の都のこと。文武天皇第1皇子の夢枕に竜神が立った。
なんでも雨を意のままにするという竜神。
小槌を出して「これで、左の掌(たなごころ)を打てば、はかりしれない果報が授かる」というと、竜神は天へ舞いのぼった。
第1皇子が目をさますと、お告げのとおり、枕元に小槌が置かれていた。
それから75日目の神亀元年2月4日。
第1皇子は即位、聖武天皇となる。
竜神を信じる天皇は、故事にのっとって、恵方・乾(いぬい=北西)の方に、神器・小槌を奉納することにした。
それが、景勝の地“山崎の里”だったという。
そして、神器をまつる寺、宝積寺は宝寺と呼ばれるようになった。
現存する小槌は、棒状で長さ約30センチの“打出”と、直径約15センチのタイコ形の“小槌”。
大黒さまの“打出の小槌”の神話にあわせ、いつの間にか、宝寺の打出の小槌と呼ばれるようになった。
境内の恵方・北西かどの蔵に収められている。
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酒に酔った村人たちが踊りはじめた。身ぶり、手ぶりは、一時のウサを晴らすのか、本当に喜びに包まれてなのか。
「ええじゃないか、ええじゃないか」
ここは、円明寺村。旧家を誇る弥平の庭先だった。幕末、慶応3年(1867)のこと。
長州の浪士隊が山崎から出陣、京都で敗退、朝敵として追われた“蛤御門変(禁門の変)”があって三年、いよいよ物情騒然としたころだ。円明寺の村人も《あしたは、どうなることやら》と、不安を隠しきれなかった。
とり入れも近づいた10月のある日、弥平の家の庭先に一枚の紙が舞い降りた。拾いあげてみると、なんと、伊勢皇大神宮の“お礼”。
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夫婦愛について。つまり夫婦の愛情にも御利益のあるお話し。
むかし、昔。遠くインドに、殺人・強盗なんでもござれの非道のかぎりをつくす男がいた。
加えて、超能力の男で、これをはばむ者はいなかった。
そんな男の前に、突然、絶世の美女が現れた。
「あなたほどの力ある人、悩める世のため人のために、心をいれかえてはどうですか」
あまりの美しさにたじろいだ男は、やおら気を取り直して
「わしのいうことを聞いてくれれば、あんたのいうとおりにしようではないか」
美人も大きくうなずいた。
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学問の神さま、受験生の神頼みといえば長岡天満宮、天神さま。
長岡天満宮は、菅原道真公を祀っておられ、毎年合格祈願の受験生や一般市民が多数参拝する。
大晦日の12月31日夜から、1月1日午前中まで、毎年無料の甘酒接待があります。
御利益は学業成就、合格祈願、家内安全、長岡京市で初詣、長岡天満宮。
境内は二万余坪を有し、天神山の東には桂離宮を造られた八条宮ゆかりの八条ヶ池が満々と水をたたえ、市街地の中でも未だ開発されていない貴重な鎮守の杜として自然環境が守られている。
八条ヶ池中堤の樹齢約150年の「きりしまつつじ」は長岡京市の天然記念物に指定されている。
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京都御所の方除けの神さまとして有名。喜式内社で乙訓地方で最も古い神社のひとつ、小倉神社に初詣。
背後の竹林の中には、鳥居前古墳という4世紀末頃に築かれた前方後円墳があります。
その被葬者が、後の時代に神格化されて神社が誕生したものと考えられています。
西に小倉山の磐座、南に久保川の清流。本殿は北東向、京都御所大極殿に面する。
背後の竹林の中に鳥居前古墳という4世紀末頃に築かれた前方後円墳があり、その被葬者が後の時代に神格化され神社が誕生したものと考えられます。
御祭神:武甕槌神、斎主神、天児屋命、比売大神
御神徳:武運長久、五穀豊穣、開運厄除
御由緒:奈良時代の元正天皇の養老2年(718)に創建。桓武天皇の平安遷都(794)に際して御所の鬼門除けとして祈願され、 文徳天皇の嘉祥3年(850)神階最高位を賜り、以来、「正一位小倉大明神」と号する。延喜の制により式内名神大社に列す。 天正10年(1582)、山崎合戦の際豊臣秀吉が戦勝を祈願した。明治維新まで境内地は6万坪余。
祭礼行事:神幸祭(5月3日)、還幸祭(5月5日)、 年30回余の宮座神事(射礼・太幣水無月座、餅座等)
主な文化財:小野道風作扁額、神輿2基(江戸時代初期推定)、神幸祭板絵、侠客奉納相撲板絵、木彫隋神2躯(推定鎌倉時代〜)、木彫狛犬(推定鎌倉時代〜)、500年〜600年の樹齢と推定される樅(モミ)の木と杉の御神木
御鎮座地:〒618-0091 京都府乙訓郡大山崎町円明寺鳥居前83
TEL(075)956-2044
交通手段:JR長岡京駅・JR山崎駅下車、徒歩30分。阪急大山崎駅・長岡天神駅よりバス10分。
御朱印:9時〜16時
特別授与品:牛王(ごおう)五穀豊穣、商売繁昌祈願授与品
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離宮八幡宮は日本の植物油の総元締めとされる神社。
平安時代末期、この神社に仕える人が「えごま油」から、寺社で使う灯明用の油を大量生産できる「長木」を発明したといわれています。
これによって、鎌倉時代、室町時代に、この神社を「油座」の本所と して、えごま油の製造販売権を独占して繁栄したことに由来しています。
いまでも日本の食用油に関係する主な会社が「崇敬会」を作っておられます。
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「明神(みょうじん)さん」の名で親しまれている養老2年(西暦718年)創建の向日神社。
應永25年(西暦1418年)に建造された本殿は、室町時代の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)という建築様式で国の重要文化財に指定されています。
五穀豊饒、祈雨、鎮火、家内安全の神様、向日市で初詣。
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走田神社は天津児屋根命(あめのこやねのみこと)など春日四神を祭る古社で、奥海印寺と長法寺の産土神(うぶすながみ)となっています。
山の中腹に鎮座し、登り参らせて頂く気持ちと、祓い清められる爽やかさが相まって清々しく、拝殿までの石段も健康管理にも最適な段数。
お正月の間は有り難い榊で飾られた鳥居もある。
さて、この辺りは元より竹藪の多い地域でしたが、現在ではマンションや住宅地の開発がすすんでいるのですがこの鳥居をくぐれば別世界。
どうぞ一度行かれてみて下さい。
車では途中まで進入して次の鳥居の横に駐車スペースが「一台分」なので車は車道の鳥居までにした方がよい。
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