金蔵寺中腹 桂海と梅若丸の墓
いつの世にも、許されない人間関係というものはある。
その”禁断の実”をかじったものは、許されないがゆえに、悲劇の運命をたどることになる。
それが、後世の人の憐れみを誘い、心を引きつける。
小塩山の中腹にある、天台宗の金蔵寺、その不動堂のわき、木陰にひっそりとたたずむ「梅若丸」と僧「桂海」の墓。
この墓にも、そんな悲しい物語が伝わっています。
カテゴリー:[ 西京区の名所と逸話 ]
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いつの世にも、許されない人間関係というものはある。
その”禁断の実”をかじったものは、許されないがゆえに、悲劇の運命をたどることになる。
それが、後世の人の憐れみを誘い、心を引きつける。
小塩山の中腹にある、天台宗の金蔵寺、その不動堂のわき、木陰にひっそりとたたずむ「梅若丸」と僧「桂海」の墓。
この墓にも、そんな悲しい物語が伝わっています。
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投稿者 河合靖之 : 19:58 | コメント (0) | トラックバック (0)
応仁元年(1467年)。
足利将軍家の相続問題をきっかけに東軍・細川勝元、西軍・山名宗全が武力で対決、以来十一年、京の都は戦乱のるつぼと化した。
世に言う”応仁の乱”。
群雄割拠、戦国時代への幕開けだった。
全国の諸大名が、東・西軍に組しての果てしない殺りく。
夜空をこがす赤い炎、道端に転がる死体の群れ、焦土と化した都大路の惨状は、まさに地獄絵だったと伝えられる。
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投稿者 河合靖之 : 19:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
「おーい、船が着いたぞ」
江戸時代も太平が続き、西国街道の往来は活気に満ちていた。
ここは山崎村の泥ヶ浜。
伏見から大阪へ下る“三十石船”の船着き場だった。
季節の野菜、果物を積んだ大八車がやってきた。
口丹波(亀岡市篠町あたり)から老ノ坂峠を越え、山崎を通って運ばれてきたのだ。
「あらよっ、ほいきた」
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投稿者 河合靖之 : 19:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
江戸末期。大原野の石見(いわみ)と上里(かみざと)の間で、”水争い”が絶えなかった。
凶作つづきのため、田に引く水は、まさに命の水。
けんかは、日を追って殺気をはらんで行く。
そんなある日。
用水路を挟んで、村人が二手に分かれ、血相を変えてののしりあっていた。
「この水は、わしらの村のもんじゃ」
「なにをいう。わしらのものにきまっている」
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投稿者 河合靖之 : 19:51 | コメント (0) | トラックバック (0)
奈良時代の神亀2年(724)8月。高僧・行基(ぎょうぎ)が弟子を連れて、山崎の里へやってきた。
西国へ説法行脚の途中だった。
そして、淀川のほとりに着いた。しかし、渡し船が見当たらない。
その場にたたずんだ行基。
ふと、大きな柱が一本、川面に突き出ているのを見た。
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投稿者 河合靖之 : 19:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
浄土宗の開祖、法然ゆかりの寺院、浄土宗 総本山 光明寺。
そのまだ南側ふところ深く。
いまでも美しい杉の木立がうっそうと茂る寺院「金原寺」(京都府長岡京市金ヶ原)。
その日は小雪もちらつく厳しい冬の景色にとざされていた。
天福元年(1233年)十二月十二日のことである。
そんな小雪の中を、「京の都」からお供数人を従えただけの貴婦人一行がひっそり到着した。
後鳥羽天皇の后で、土御門天皇の母、承明門院だった。
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投稿者 河合靖之 : 19:45 | コメント (0) | トラックバック (0)
昔、信濃の国に命蓮という法師がいたが、ぜひとも東大寺に参って受戒しようと思い、都へ上がってきた。
この僧は、このまま故郷に帰るのをよしとせず、都の西南方の信貴山中にとどまり、厨子仏を感得して仏堂を建立、長年修行に励んでいた。
その頃、山里に、身分は低いけれどもたいへん裕福な長者がいた。
そこへこの僧の飛ばした鉢が飛んでくるので、長者はいつもその鉢に施しものをしていたのだった。
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投稿者 河合靖之 : 19:43 | コメント (0) | トラックバック (0)
赤根神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊ですが、「赤根天神社」とも呼ばれていて、菅原道真公を祀っているとか、天神とは雷の神なので、古くは火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀っていたのではないかとの説もあります。
昔、この地には井ノ内の旧石田家の屋敷があり、この神社は屋敷内に建つ石田家氏神であったそうです。
その後、応仁の乱で消失し、元和二年(1616年)、石田瀬兵衛が再建したと伝えられ、現在も境内には石田瀬兵衛寄進の石灯籠や石鳥居などが残っています。
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投稿者 河合靖之 : 13:32 | コメント (0) | トラックバック (0)
「もしや瀬兵衛さんの身になにかあったのでは」
朝から胸騒ぎの続いていた新経尼は、庭の柏の大きな葉っぱが、風もないのに、はらりと落ちるのを見て不安を一層つのらせていた。
「新経尼」は、江戸時代後期の文化五年(1808年)、物集女村の”崇恩寺”住職をつとめていた人物。
崇恩寺は、後醍醐天皇の勅願寺といわれ、明治維新まではかなり大きな寺院で、新経尼は皇族の出身だったとも言われる。
そして、井ノ内村には室町時代から続く豪族・石田家があり、第十六代当主・石田瀬兵衛は、新経尼の精魂こめた信仰ぶりにうたれ、仏門の師と仰いで、事あるごとに助けを惜しまなかった。
新経尼もこの厚意に感激、剛胆な性格だった瀬兵衛をなにかにつけ頼みにしていた。
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投稿者 河合靖之 : 19:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
「ほんとうに、雨は降るのだろうかのう」
「いや、きっと降る。祈っておられるのは、たいそうえらいお坊さまだそうな」
青竜寺観音堂のまわりの境内は、二年続きの大干ばつに力なく座り込んだ村人たちでぎっしり埋められていた。
堂内の祈とうに合わせ雨ごいの祈りをするもの、半信半疑で隣の人と話をするもの……。
が堂内では外の様子にもまぅったくきにせず、本尊の十一面観世音菩薩に護摩をたき、一心不乱に祈る僧の姿があった。
世に名僧の誉れ高い”千観和上”だった。
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投稿者 河合靖之 : 19:38 | コメント (0) | トラックバック (0)
長岡京市今里では、毎年9月頃、成人に達する前の若衆が先達の引率により大峰山の行場で修行しました。
これは、大人の男に仲間入りする節目の一つとされ、「行者さん」「行者講」と呼ばれていました。
「行者講」というのは大峰信仰に基づく集団で、乙訓各地に講の存在があり、たとえば長岡京市には勝竜寺、馬場、井ノ内、長法寺などの地区に存在していました。
中でも、井ノ内では20人ほどの講員がいて、ほら貝など山入の道具を順番にまわしながら保管していて、毎年1月6日には当番のものがほら貝を吹いてムラ中をまわり、講員が集って宴を開くというしきたりがありました。
また、毎年、代参者が交替で大峰山に参拝し、祈祷のおふだを講員にくばっていたそうです。
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投稿者 河合靖之 : 14:06 | コメント (0) | トラックバック (0)
行きずりの僧が道中、他宗派の坊さんと法論を戦わす。
自分の信仰が正しいか、相手が正論か。
ちょっとした、いきがかりや感情が、こじれてのケンカでない。
文字通り信念を、人生をかけての戦い、敗れると、自己の全存在が否定されるだけでなく、多数の信者に波紋が及ぶ。
日蓮宗と真言宗の激突は、都を離れた、静かな乙訓の里で繰り広げられた。
舞台は、向日の里の鎮守前、つまり今の向日神社の前である。
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投稿者 河合靖之 : 12:04 | コメント (0) | トラックバック (0)
下鴨神社と上賀茂神社は、ともに京都で有名な神社ですが、今回は、特に下鴨神社と密接な関係のある「角ノ宮乙訓神社」の伝説です。
遠いむかし、それは、まだ神と人が仲良く暮らしていたころの話しでした。
賀茂川のほとりで美しい姫が遊んでいて、流れに浮かぶ真っ赤な矢を見つけた。
「まあ、美しい矢」。
姫の名は玉依姫(たまよりひめ)といい、神武天皇の建国のおり、姿を八咫鳥(やたがらす)に変えて大和へ天皇を導いた神・建角御命(たけつぬみのみこと)の娘だった。
大和平定後の建角御命は、北山に来て、その風光の美しさがすっかり気に入り、丹波の国から伊加児屋姫(いかごやひめ)を妻に迎えて住みついていて、玉依姫のほかに玉依彦という男の子も生まれていた。(写真の灯籠に「乙訓大明神」と記されている。)
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投稿者 河合靖之 : 12:03 | コメント (1) | トラックバック (0)
寺院や古刹が散在する古の京都大原野。
遠いむかし、日本の歴史が、まだ霧に包まれていた時代のこと。
「愛する妻よ、なぜ先に死んでしまったのか。この私は、これから一体、なにを頼りに生きていけばよいのか」
垂仁天皇のほおに、悲しみの涙がとめどなく流れた。
最愛の皇后・日葉酢媛(ひはすひめ)に先立たれ、悲しみのどん底につき落とされた天皇は、幾日も部屋に閉じこもり、運命の皮肉を恨んだ。が嘆いてばかりいても仕方がない。
石作には、全国から石棺づくりの腕に覚えのある人たちが集められ、当時、石灰の産出地として知られた京都市西京区大原野の小塩山を背にした東方に広がる段丘地帯で”石棺競争”が開かれたのだ。
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投稿者 河合靖之 : 12:01 | コメント (0) | トラックバック (0)
江戸時代の末、西ノ岡古市村(長岡京市神足)にある、潤福寺の本堂床下に、一匹のキツネが住みついた。
とても、ひょうきんなキツネで、村人をだますのが大好き。
夜遅く出歩こうものなら、すぐに現れて、若い娘に化けて驚かせたり、道に迷わせたりは当たり前。
しかし、村人には大事になるような被害はなく、およばれのご馳走をかすめとられる程度で、憎むに憎めぬいたずらばかり。
かえって、村人から親しみが寄せられて、いつごろとなく、そのキツネは”おみきさん”と呼ばれるようになった。
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投稿者 河合靖之 : 11:59 | コメント (0) | トラックバック (0)
京都府長岡京市、久貝(くがい)に居住しておられた、故中山修一先生(京都文教短期大学名誉教授)は、古代の都・長岡京に並々ならぬ関心を持たれ、戦後、私財も投じてその発掘調査に当たられました。
そして、昭和29年(1954年)、朝堂院の南門である会昌門を発見され、長岡京市は”幻の都”でなく、”現の都”であったことを立証されました。
そして、現在も発掘調査は続けられております。
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投稿者 河合靖之 : 11:56 | コメント (0) | トラックバック (0)
京都府向日市鶏冠井町の名刹(めいさつ)・北真経寺(笈田本経住職)で12日、千日間の荒行を終えた僧が水行を行う帰山式が営まれた。関係寺院の僧や信徒約150人が集まり、「南無妙法蓮華経」を唱えて、帰山した笈田泰淳副住職(40)を迎えた。
笈田副住職は昨年11月、自ら心身を鍛えようと、千葉県市川市の法華経寺大荒行堂に入った。睡眠時間を1日2−3時間に抑え、読経や写経、1日7回の水行などに励み、3度目となった荒行を終えた。
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投稿者 河合靖之 : 11:55 | コメント (0) | トラックバック (0)
野上神社は、神足神社境内の東側に鎮座しています。
もとは、「旧小字野上」(西方のJR東海道線の線路脇)に祀られていましたが、明治の初めに境内に移されたとのことです。
野上神社は、野上天神とも呼ばれ社殿は一間社流造で、屋根は檜皮葺、四面に飾られる蟇股(かえるまた)は獅子と牡丹の丸彫りで技術的水準お高いもので、江戸中期の建立とされています。
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投稿者 河合靖之 : 11:54 | コメント (0) | トラックバック (0)
遺跡のなまえ:白味才遺跡
調査地の住所:京都府乙訓郡大山崎町小字永福寺29-1番地
調査期間:2004年11月10日〜2005年2月28日
調査面積:400平方メートル90
調査主体:大山崎町教育委員会
現地説明会に参加しました。
200人はお越しになっており少々驚いた次第です。
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投稿者 河合靖之 : 11:52 | コメント (0) | トラックバック (0)
それは、江戸時代の、ころは定かではありませんが、京都と乙訓が大雨に見舞われた後だったといいます。
「あれ、こんな竹やぶに、薬師さまがござる。もったいないことじゃ」
古市の村人が、小畑川右岸近くで、泥だらけの薬師如来を見つけました。
村人はさっそくきれいな水で身を清め、村のお寺、潤福寺に安置した。
しかし、手は取れ、肩は欠け、全身傷だらけの、それは痛ましいお姿だったといいます。
「どこから、ござらしたのやら」
村人たちは、首をひねるばかりでした。
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投稿者 河合靖之 : 11:50 | コメント (0) | トラックバック (0)
京都 洛西観音霊場第八番 観音寺に並ぶ、子守勝手神社。
祭神は子守勝手大神、由緒は不詳で、その創建も明らかではありません。
(伝承によると奈良県の吉野水分神社の系統といわれています。)
粟生村の産土神で、十人衆と呼ばれる粟生の長老によって祭祀が行われております。
水分神(みくまりのかみ)は、水配り、即ち農業用水を司る神とされ、子守勝手神社は、おそらく子守社と、勝手社の二つの性格を持った社が一つになったといわれています。
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投稿者 河合靖之 : 11:48 | コメント (0) | トラックバック (0)
乙訓地方で学問の神さまといえば、長岡天満宮。
受験シーズンや、四季折々の花の見どころとしても有名で観光客で賑わいます。
長岡天満宮の大鳥居をくぐりますと、目の前に八条ヶ池がひろがります。
今回は、この長岡天満宮の八条が池についての話しです。
さて、その昔。
「魚に神魚もなにもあるものか。どれ、ひとつ網をうって、ごっそり捕ってやろう」
夜も深まった、八条ヶ池のほとりに、一人の漁師が着々と漁の準備に取りかかりながらつぶやいていた。
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投稿者 河合靖之 : 00:46 | コメント (0) | トラックバック (0)
勝竜寺城の元の名は、勝龍寺城。
勝龍寺城は、暦応2年(1339年)、細川頼春と、師氏(もろうじ)が築城したと伝えられています。
このころは南北朝時代で、男山八幡まで進出してきた南北朝に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いていたといわれ、京都盆地の南西部を防衛する要所にありました。
応仁・文明の乱では西軍(畠山義就)の拠点となり、戦国時代になると、永禄11年(1568年)に織田信長が上洛、西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちに幽斎)に城が与えられました。
藤孝は、元亀2年(1571年)、二重の堀と土塁を築くなど大規模な改修工事を行い、非常に堅固な城としました。
現在の、勝竜寺公園は、その当時の面影を残して整備されています。
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投稿者 河合靖之 : 14:44 | コメント (0) | トラックバック (0)
柳谷観音に向かって、釈迦谷の十三仏から、左に向かいますと、大仏さんにお出会いがかないます。
乗願寺の山号は浄土山。
寺縁起によれば、天延年中(973〜976年)に、恵心僧都(源信)によって創建されたと言われ、浄土谷一帯が、平安時代以前に開かれたらしく、「釈迦ん谷(しゃかんたに)」「たいこん堂」「欄杆房(らんかぶ)」などの地名も残っております。
天台宗の高僧、恵心僧都が比叡山を下って修行の道すがら、この地で大きな岩に坐って念仏を唱えているとき、まぶしい光とともに阿弥陀如来が現れ、それに感激した恵心僧都が、そのお姿を霊木にとどめ安置したのがはじまりのこの大仏さま、
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投稿者 河合靖之 : 11:07 | コメント (0) | トラックバック (0)
JR長岡京駅東口、派出所の南側に公衆電話ボックスがあり、その南側に、”煙突”のモニュメントが存在しています。
”えんとつ”の平和記念碑です。
「第二次世界大戦中、アメリカは文化財の多い京都と奈良への空襲を避けていた。
だから、京都や奈良には空襲爆撃など来たことがない。」
この様に聞かされることが多かったのですが、実は京都市内も空襲をうけていたことがあります。
参考:京都空襲語り伝える京都の戦争・京都に原爆を投下せよ
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投稿者 河合靖之 : 00:41 | コメント (0) | トラックバック (0)
神足神社は「こうたりじんじゃ」と読みます。
京都府長岡京市の代表的な地名としてある「神足」
今回は、この地名にもゆかりある、神足神社のご紹介です。
神足神社は旧神足村の産土神で式内社。「延喜式」にのる乙訓十九座の一つで、「神足神社」(こうたにのじんじゃ)と記されております。
また、文徳天皇の斉衡元年(八五四)に国の官社にあげられていおり、お祀りされている祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」であるといわれています。
そしてこの神足神社には、「桓武天皇の夢」という伝説が残っています。
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投稿者 河合靖之 : 12:39 | コメント (0) | トラックバック (0)
御谷神社は、江戸時代「五社大明神」と呼ばれていたが、明治6年(1873年)には村社となり、明治10年(1877年)に延喜式内社 御谷神社となったとのことです。
沿革は明らかでないが、隣にある「乗願寺」の棟札に、天文23年(1558年)湯川次郎左右衛門春信が、御谷神社の本殿を修理したことが書かれており、当時は御谷神社の祭祀はお寺が中心になって行っていたのではないかと推察されています。
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