2005年09月03日
開田城土塁
天神一丁目に現存する、戦国時代(15世紀〜16世紀)の開田城土塁が9月1日に、長岡京市で3番目の市指定史跡になりました。
開田城あとにはマンションが建設されましたが、西辺土塁は保存され、開田城土塁公園として保存され、開田城土塁公園として整備されました。
阪急、開田バス停西の公園北側には開田城案内板、またマンションエントランスには開田城の復元模型が展示され、どなたでも見学可能です。
さて、開田城は、阪急長岡天神駅の西約百メートルに位置し、乙訓地域の国衆、中小路氏によって築かれた居館(居城)と考えられています。
中小路氏など土豪や地侍は村のリーダーとして、戦国時代に活躍していたわけです。
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2005年03月04日
御谷神社
この地名は浄土谷。
沿革は明らかではありませんが、隣接して建立される仏閣「乗願寺」の棟札に、「天文23年(1558年)湯川次郎左右衛門春信が、御谷神社の本殿を修理した」と記されており、当時は御谷神社の祭祀はお寺が中心になって行っていたのではないかと推察されています。
また、この社殿は、江戸時代「五社大明神」と呼ばれていましたが、明治6年(1873年)に村社となり、明治10年(1877年)に延喜式内社 御谷神社となったとのこと。
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2005年03月03日
柳谷の観音さん揚谷寺
京都市内の観光名所。
「清水の舞台」で有名な清水寺が建てられたのこのころ、桓武天皇が、長岡京から平安京へ都を移した。(延暦年間:794-805)。そして、新都造営にあわせて、大寺の建立も行われていた。
柳谷観音の開山・延鎮僧都は、本尊に十一面千手千眼観世音菩薩をまつるのが願いだった。
「観世音菩薩を彫刻するには、生身の観音さまをおがみたい」延鎮は日夜、仏に祈り続けた、ある夜のこと。眠りについた延鎮のまくら元に、仏の使いとおもえる神々しい人物が現れ、「ここを去って、はるかに西山にはいるべし。
汝の日ごろの心願がかなえられよう」と告げて姿を消した。
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2005年03月02日
走田神社 妙見菩薩
弘法大師の高弟、道雄僧都が、ある夜、まことに不思議な夢を見た。
平安朝初期のこと。
嵯峨天皇に、国家鎮護、衆生済度の大寺院建立を命じられた道雄は、それにふさわしい寺院建立の場所を探しあぐね悩んでいた。
夢には、人間とも、神さまとも、仏さまとも思える一人の童子が現れ、
「旧都(長岡京)のはずれ、西山にかっこうの土地がある。求むべし」
と、いって、その土地を夢の中に描いて消え去った。
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2005年02月23日
金原寺
浄土宗の開祖、法然ゆかりの寺院、浄土宗 総本山 光明寺。
そのまだ南側ふところ深く。
いまでも美しい杉の木立がうっそうと茂る寺院「金原寺」(京都府長岡京市金ヶ原)。
その日は小雪もちらつく厳しい冬の景色にとざされていた。
天福元年(1233年)十二月十二日のことである。
そんな小雪の中を、「京の都」からお供数人を従えただけの貴婦人一行がひっそり到着した。
後鳥羽天皇の后で、土御門天皇の母、承明門院だった。
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2005年02月21日
赤根神社
赤根神社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊ですが、「赤根天神社」とも呼ばれていて、菅原道真公を祀っているとか、天神とは雷の神なので、古くは火雷神(ほのいかづちのかみ)を祀っていたのではないかとの説もあります。
昔、この地には井ノ内の旧石田家の屋敷があり、この神社は屋敷内に建つ石田家氏神であったそうです。
その後、応仁の乱で消失し、元和二年(1616年)、石田瀬兵衛が再建したと伝えられ、現在も境内には石田瀬兵衛寄進の石灯籠や石鳥居などが残っています。
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2005年02月20日
新経尼の供養塔
「もしや瀬兵衛さんの身になにかあったのでは」
朝から胸騒ぎの続いていた新経尼は、庭の柏の大きな葉っぱが、風もないのに、はらりと落ちるのを見て不安を一層つのらせていた。
「新経尼」は、江戸時代後期の文化五年(1808年)、物集女村の”崇恩寺”住職をつとめていた人物。
崇恩寺は、後醍醐天皇の勅願寺といわれ、明治維新まではかなり大きな寺院で、新経尼は皇族の出身だったとも言われる。
そして、井ノ内村には室町時代から続く豪族・石田家があり、第十六代当主・石田瀬兵衛は、新経尼の精魂こめた信仰ぶりにうたれ、仏門の師と仰いで、事あるごとに助けを惜しまなかった。
新経尼もこの厚意に感激、剛胆な性格だった瀬兵衛をなにかにつけ頼みにしていた。
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2005年02月19日
千観和上 乙訓寺
「ほんとうに、雨は降るのだろうかのう」
「いや、きっと降る。祈っておられるのは、たいそうえらいお坊さまだそうな」
青竜寺観音堂のまわりの境内は、二年続きの大干ばつに力なく座り込んだ村人たちでぎっしり埋められていた。
堂内の祈とうに合わせ雨ごいの祈りをするもの、半信半疑で隣の人と話をするもの……。
が堂内では外の様子にもまぅったくきにせず、本尊の十一面観世音菩薩に護摩をたき、一心不乱に祈る僧の姿があった。
世に名僧の誉れ高い”千観和上”だった。
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2005年02月18日
大峰山参拝禊ぎ場
長岡京市今里では、毎年9月頃、成人に達する前の若衆が先達の引率により大峰山の行場で修行しました。
これは、大人の男に仲間入りする節目の一つとされ、「行者さん」「行者講」と呼ばれていました。
「行者講」というのは大峰信仰に基づく集団で、乙訓各地に講の存在があり、たとえば長岡京市には勝竜寺、馬場、井ノ内、長法寺などの地区に存在していました。
中でも、井ノ内では20人ほどの講員がいて、ほら貝など山入の道具を順番にまわしながら保管していて、毎年1月6日には当番のものがほら貝を吹いてムラ中をまわり、講員が集って宴を開くというしきたりがありました。
また、毎年、代参者が交替で大峰山に参拝し、祈祷のおふだを講員にくばっていたそうです。
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2005年02月16日
乙訓神社
下鴨神社と上賀茂神社は、ともに京都で有名な神社ですが、今回は、特に下鴨神社と密接な関係のある「角ノ宮乙訓神社」の伝説です。
遠いむかし、それは、まだ神と人が仲良く暮らしていたころの話しでした。
賀茂川のほとりで美しい姫が遊んでいて、流れに浮かぶ真っ赤な矢を見つけた。
「まあ、美しい矢」。
姫の名は玉依姫(たまよりひめ)といい、神武天皇の建国のおり、姿を八咫鳥(やたがらす)に変えて大和へ天皇を導いた神・建角御命(たけつぬみのみこと)の娘だった。
大和平定後の建角御命は、北山に来て、その風光の美しさがすっかり気に入り、丹波の国から伊加児屋姫(いかごやひめ)を妻に迎えて住みついていて、玉依姫のほかに玉依彦という男の子も生まれていた。(写真の灯籠に「乙訓大明神」と記されている。)
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2005年02月14日
潤福寺
江戸時代の末、西ノ岡古市村(長岡京市神足)にある、潤福寺の本堂床下に、一匹のキツネが住みついた。
とても、ひょうきんなキツネで、村人をだますのが大好き。
夜遅く出歩こうものなら、すぐに現れて、若い娘に化けて驚かせたり、道に迷わせたりは当たり前。
しかし、村人には大事になるような被害はなく、およばれのご馳走をかすめとられる程度で、憎むに憎めぬいたずらばかり。
かえって、村人から親しみが寄せられて、いつごろとなく、そのキツネは”おみきさん”と呼ばれるようになった。
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2005年02月13日
中山修一記念館
京都府長岡京市、久貝(くがい)に居住しておられた、故中山修一先生(京都文教短期大学名誉教授)は、古代の都・長岡京に並々ならぬ関心を持たれ、戦後、私財も投じてその発掘調査に当たられました。
そして、昭和29年(1954年)、朝堂院の南門である会昌門を発見され、長岡京市は”幻の都”でなく、”現の都”であったことを立証されました。
そして、現在も発掘調査は続けられております。
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2005年02月12日
野上神社
野上神社は、神足神社境内の東側に鎮座しています。
もとは、「旧小字野上」(西方のJR東海道線の線路脇)に祀られていましたが、明治の初めに境内に移されたとのことです。
野上神社は、野上天神とも呼ばれ社殿は一間社流造で、屋根は檜皮葺、四面に飾られる蟇股(かえるまた)は獅子と牡丹の丸彫りで技術的水準お高いもので、江戸中期の建立とされています。
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2005年02月09日
台なし薬師
それは、江戸時代の、ころは定かではありませんが、京都と乙訓が大雨に見舞われた後だったといいます。
「あれ、こんな竹やぶに、薬師さまがござる。もったいないことじゃ」
古市の村人が、小畑川右岸近くで、泥だらけの薬師如来を見つけました。
村人はさっそくきれいな水で身を清め、村のお寺、潤福寺に安置した。
しかし、手は取れ、肩は欠け、全身傷だらけの、それは痛ましいお姿だったといいます。
「どこから、ござらしたのやら」
村人たちは、首をひねるばかりでした。
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2005年02月06日
学問の神さま長岡天満宮
乙訓地方で学問の神さまといえば、長岡天満宮。
受験シーズンや、四季折々の花の見どころとしても有名で観光客で賑わいます。
長岡天満宮の大鳥居をくぐりますと、目の前に八条ヶ池がひろがります。
今回は、この長岡天満宮の八条が池についての話しです。
さて、その昔。
「魚に神魚もなにもあるものか。どれ、ひとつ網をうって、ごっそり捕ってやろう」
夜も深まった、八条ヶ池のほとりに、一人の漁師が着々と漁の準備に取りかかりながらつぶやいていた。
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2005年02月05日
勝竜寺城公園
勝竜寺城の元の名は、勝龍寺城。
勝龍寺城は、暦応2年(1339年)、細川頼春と、師氏(もろうじ)が築城したと伝えられています。
このころは南北朝時代で、男山八幡まで進出してきた南北朝に対抗するため、北朝(足利尊氏)方の前線基地として築いていたといわれ、京都盆地の南西部を防衛する要所にありました。
応仁・文明の乱では西軍(畠山義就)の拠点となり、戦国時代になると、永禄11年(1568年)に織田信長が上洛、西岡一帯を攻略し、細川藤孝(のちに幽斎)に城が与えられました。
藤孝は、元亀2年(1571年)、二重の堀と土塁を築くなど大規模な改修工事を行い、非常に堅固な城としました。
現在の、勝竜寺公園は、その当時の面影を残して整備されています。
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2005年02月04日
乗願寺の大仏さん
柳谷観音に向かって、釈迦谷の十三仏から、左に向かいますと、大仏さんにお出会いがかないます。
乗願寺の山号は浄土山。
寺縁起によれば、天延年中(973〜976年)に、恵心僧都(源信)によって創建されたと言われ、浄土谷一帯が、平安時代以前に開かれたらしく、「釈迦ん谷(しゃかんたに)」「たいこん堂」「欄杆房(らんかぶ)」などの地名も残っております。
天台宗の高僧、恵心僧都が比叡山を下って修行の道すがら、この地で大きな岩に坐って念仏を唱えているとき、まぶしい光とともに阿弥陀如来が現れ、それに感激した恵心僧都が、そのお姿を霊木にとどめ安置したのがはじまりのこの大仏さま、
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2005年02月03日
平和記念碑
JR長岡京駅東口、派出所の南側に公衆電話ボックスがあり、その南側に、”煙突”のモニュメントが存在しています。
”えんとつ”の平和記念碑です。
「第二次世界大戦中、アメリカは文化財の多い京都と奈良への空襲を避けていた。
だから、京都や奈良には空襲爆撃など来たことがない。」
この様に聞かされることが多かったのですが、実は京都市内も空襲をうけていたことがあります。
参考:京都空襲語り伝える京都の戦争・京都に原爆を投下せよ
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2005年02月02日
神足神社
神足神社は「こうたりじんじゃ」と読みます。
京都府長岡京市の代表的な地名としてある「神足」
今回は、この地名にもゆかりある、神足神社のご紹介です。
神足神社は旧神足村の産土神で式内社。「延喜式」にのる乙訓十九座の一つで、「神足神社」(こうたにのじんじゃ)と記されております。
また、文徳天皇の斉衡元年(八五四)に国の官社にあげられていおり、お祀りされている祭神は「舎人親王(天武天皇の子)」であるといわれています。
そしてこの神足神社には、「桓武天皇の夢」という伝説が残っています。
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2005年02月01日
御谷神社
御谷神社は、江戸時代「五社大明神」と呼ばれていたが、明治6年(1873年)には村社となり、明治10年(1877年)に延喜式内社 御谷神社となったとのことです。
沿革は明らかでないが、隣にある「乗願寺」の棟札に、天文23年(1558年)湯川次郎左右衛門春信が、御谷神社の本殿を修理したことが書かれており、当時は御谷神社の祭祀はお寺が中心になって行っていたのではないかと推察されています。
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2005年01月31日
弥勒谷十三仏
柳谷楊谷寺へ向かう道路の浄土橋の分岐点にある、弥勒谷十三仏。
右へゆけば、柳谷観音に向かい、左へゆけば御谷神社や乗願寺に向かい、さらには天王山への登山口があります。
岩壁に、不動明王、大日如来、地蔵菩薩など13体の仏様が安置されています。
十三仏信仰は、供養によって現世の安楽、極楽浄土を願うという民間信仰で、室町時代から江戸時代にかけて盛んになったようです。
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2005年01月30日
法然の石棺
名僧・法然の石棺に異変がみられたのは、安貞二年(1228年)の一月二十日。法然が世を去って十六年目のこと。
法然の晩年は、奈良や叡山の仏教集団から迫害が絶えず、それは死後にも及んでいた。
特に叡山の衆徒は、法然が宗敵、いつか墓をあばき遺体を鴨川に捨ててやると執念を燃やしていた。
危険を感じた弟子たちは、京都東山の大谷の墓から石棺を取り出し、嵯峨・二尊院、さらに、弟子の一人、来迎坊円空のいる太秦の広隆寺へ移して難を逃れた。
異変は、ここで起こった。
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2005年01月29日
庄屋高橋茂右衛門屋敷跡の石碑
保元元年(1156年)、粟生野の里(長岡京市粟生)にも春の訪れが日増しに感じられ、枯れ草のあいまには既に若草が顔を出していた。とはいえ、日が暮れると、まだ寒く、人の出歩く姿はぷっつり途絶えてしまい、静まりかえった。
この里に、高橋茂右衛門という人がいた。
家は代々の庄屋で、近在でも一、二を争う家柄だった。
だんなさんらしく温厚そのものだったが、人を見る目は厳しく、心の奥底まで見通すほどの鋭い観察力を持ち合わせていた。
ある夜、かなり遅くなって、この茂右衛門宅の戸をたたく者がいた。
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2005年01月28日
今里大塚古墳
「今はお国の非常時。迷信のため、食糧増産が出来ないようなことがあっては、それこそ一大事だ。あの古墳にクワを入れて耕そうではないか」
乙訓村今里(長岡京市今里)の青年団員らが、熱っぽい口調で、「今里大塚古墳」の開墾を主張した。(昭和十七年三月、太平洋戦争突入三ヶ月後のことである。)
国をあげて食糧増産が叫ばれはじめ、学校の校庭さえイモ畑にとすすめられるなか、青年たちの叫びも当然のことであった。が、村人たちの反応は冷たかった。
「あの古墳は、”乙訓の主”が眠るところじゃ。」
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2005年01月27日
合体大師
空海が、乙訓寺の別当(管長)に任ぜられたのは弘仁二年(811年)の晩秋。
京の都から、旧都・長岡京の乙訓寺に着いた空海は、思わず「これはひどい」と、絶句した。
奈良の東大寺と並ぶ当時の名刹は、平安京への遷都もあってカキは倒れ、堂は雨漏りするほどに荒れ果てていたのだ。
二十六年前に、桓武天皇から謀反の疑いで乙訓寺に幽閉され、憤死した早良親王の怨霊がこもっているような感じさえ漂わせていた。
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2005年01月26日
乙訓寺の竜神さま
慶応年間。世間は勤皇か佐幕かであわただしく動いていたが、乙訓地方の農民にとっては、それどころではなかった。
政体が変わるかどうかよりも、もっと重大な危機に立たされていた。
その年にかぎって、どうしたことか、田植え時期にはいったというのに日照り続き。
水田は、カラカラに干上がり、ひびさえ入っていた。
「頼りは乙訓寺の竜神さまに祈って、雨を降らしてもらうよりない」
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2005年01月21日
一文橋
「おや、橋を渡るのに銭がいるのかや」
「一文払わないと、渡ることはまかりならぬと、強そうな番人が見張ってますよ」
旅人たちは、びっくりして顔を見合わせた。
いずれも、それほど立派な身なりではない。
大きな風呂敷を背に負った行商人や巡礼、破れ袈裟のお坊さんなど。
裕福そうな旅人が”一文銭”を払い、ゆうゆうと渡っていくのをうらやましそうにながめていた。
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2005年01月20日
境神さん
奥海印寺地域に、下海印寺の地域が三角形に食い込んでいた場所がある。
以前は、そこにはしめ縄がはられていた。
いま、ふたつの”石”がまつられているこの場所は、空き地とも、なんともいえない場所だけど、下海印寺の人たちは毎年十二月八日と一月八日に、お神酒をささげて祭りを営んでいたようだ。
なんとも、不思議なこの場所を、奥海印寺の人は「にじり込みの神」、下海印寺の人は、「境神」として、祀っていた。
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2005年01月19日
明星水
昔から水の美味しい地域といわれている乙訓の地。
今回は、ここ京都、乙訓にまつわる名水、といっても霊験ある「お水」についての話しである。
時はむかし。
「万病にきく霊水が乙訓にあるそうな」
「なんでも、むかし天皇さまが、その霊水を飲んで、不治の病をなおされたとか」
こうした噂が近畿一円に広がった時代がありました。
いまから77年あまり前の大正15年のこと。
難病に悩む人たちが、この霊水「明星水」をいただこうと各地から草深い乙訓にやってきたわけです。
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2005年01月18日
与市兵衛の墓 史跡
元禄十五年(1702)暮れ、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、太平になれた民衆をおどろかすとともに、忠義の士よと大きなかっさいを浴びた。
だが、その陰には運命のいたずらにほんろうされ、悲惨な最期をとげた人たちがいた。
もと赤穂藩士・萱野三平(早野勘平)の義父与市兵衛もその一人。
与市兵衛は、娘のお軽を愛したがゆえに浪人し、漁師みたいな生活をしている三平が哀れだった。 「なんとかもう一度世に出したい」と思い悩んでいたのだ。
そうした折り、旧主のあだ討ちのうわさを聞いた三平は「なんとか同士に加わり、武士の一分をたてたい」と、その条件になる御用金をつくりたいとあせっていた。
こうした三平の悩みをみて与市兵衛は、お軽を祗園に身売りさせることを決心した。
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2005年01月17日
調子筑後守の巻 逸話
「うム来たか」
調子筑後守は、家臣の報告に大きくうなずいて、床儿(しょうぎ)からたちあがった。
ころは江戸時代。
交通の要、西国街道と丹波街道の分岐点、いまの長岡京市調子八角の街角で、筑後守が待ち受けていたのは、参勤交代の大名行列だった。
「下に〜下に〜。」供ぞろいも華やかに通りかかった大名行列に、筑後守は「待たれい」と大手をひろげて立ちはだかった。
「なにやつ。無礼であろう」と大名の家臣が刀の柄に手をかけて詰め寄り、まわりは緊迫した空気につつまれた。
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2005年01月16日
馬ノ池
競馬をする人というのは、やはり馬のクセなどを見て知恵を出して投票するのだろうから、この馬ノ池に関する話しから何かを感じられるのではないか。
落馬しても、またすぐに乗って、最後には儲けた訳なのだから、金運が上昇しそうな話しではないか。また、棚からぼた餅とすれば、宝くじへの効能があったりする。かもしれない。
ときは、平安時代の末期。近衛府将監(このえふしょうげん)で下野武正という武士がいた。
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2005年01月05日
長岡天満宮
子どもの、受験・入試シーズンには特に賑わう、学問 の神さま、天満宮。
特に乙訓の地では、長岡天満宮が賑わいを見せる。
今回はそのご神体について
時は、延喜元年(901)平安の京で政変が起こった。
藤原一門を抑える人物として、宇多天皇に信任されていた菅原道真公の左遷である。
「右大臣道真公が、左大臣藤原時平のざん言で、筑紫の太宰府にお流されになるそうだ。おいたわしいことよ」
人々の道真公を惜しむ声は、たちまち、京の近辺に広がり、長岡にも政変の話しが伝わってきた。
そのころ、乙訓寺に付属した長岡精舎の坊官に、中小路宗則、西小路祐仲、東小路祐房の三人がいた。
この三人は、道真公の人柄に深くひかれていたので、ただちに京にのぼり、配所までの供を願い出た。
道真公は、三人を供に京を離れたが、、長岡まできたときに、だんだんと遠のいていく平安の都をのぞみ、惜別の情にうたれて思わず涙ぐんだ。
宗則ら三人も道真公の心中をおもい、ただうつむいて、おえつがもれるのをこらえていた。
まわりには榊が生え、その青々とした枝が、いっそう悲しみを誘った。
道真公は突然、榊の一枝を折ると、
「われ、身は筑紫におもむくとも心はこの地にとどまるべし。その証しに、この枝はこの地に長く栄えるだろう」といって、地上に突きさした。
その枝は言葉通りに生え茂り、いまも長岡天満宮の境内は榊に囲まれている。
筑紫の太宰府に着いたあとも、宗則ら三人は、かいがいしく道真に仕えた。
三人の誠心は、道真公を涙ぐませるほど感激させたが、
一方では「わたしは、もう都に呼び戻されることはあるまい。私とともに将来ある若者を筑紫の田舎で朽ちさせてはいけない」と思うのだった。
意を決した道真公は、ある日三人を呼び、都へ帰るように申し渡す。
三人は、「私たちは、道真公のお側に仕えるだけで満足なのです」と、この地にとどまることを願ったが、道真公の気持ちは変わらなかった。
やむなく、太宰府を去る決意をした三人に、道真公は自身のお姿を自ら彫った一寸八分(約6センチ)の木像を贈り、名残を惜しんだ。
それから、約二年後の延喜三年(903)、道真が太宰府の配所で寂しく世を去ったと聞いた宗則らは、この木像を御神霊として長岡精舎にまつった、
長岡天満宮のいわれであり、いまにいたるまで地元はもとより、広く信仰を集めている。
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2005年01月01日
長岡天満宮
学問の神さま、受験生の神頼みといえば長岡天満宮、天神さま。
長岡天満宮は、菅原道真公を祀っておられ、毎年合格祈願の受験生や一般市民が多数参拝する。
大晦日の12月31日夜から、1月1日午前中まで、毎年無料の甘酒接待があります。
御利益は学業成就、合格祈願、家内安全、長岡京市で初詣、長岡天満宮。
境内は二万余坪を有し、天神山の東には桂離宮を造られた八条宮ゆかりの八条ヶ池が満々と水をたたえ、市街地の中でも未だ開発されていない貴重な鎮守の杜として自然環境が守られている。
八条ヶ池中堤の樹齢約150年の「きりしまつつじ」は長岡京市の天然記念物に指定されている。
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走田神社
走田神社は天津児屋根命(あめのこやねのみこと)など春日四神を祭る古社で、奥海印寺と長法寺の産土神(うぶすながみ)となっています。
山の中腹に鎮座し、登り参らせて頂く気持ちと、祓い清められる爽やかさが相まって清々しく、拝殿までの石段も健康管理にも最適な段数。
お正月の間は有り難い榊で飾られた鳥居もある。
さて、この辺りは元より竹藪の多い地域でしたが、現在ではマンションや住宅地の開発がすすんでいるのですがこの鳥居をくぐれば別世界。
どうぞ一度行かれてみて下さい。
車では途中まで進入して次の鳥居の横に駐車スペースが「一台分」なので車は車道の鳥居までにした方がよい。
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2004年12月30日
名産 タケノコと深いつながりがある”夢童子”さん
平安初期のこと。嵯峨天皇に国家鎮護、衆生済度の大寺院の建立を命じられた道雄は、それにふさわしい寺院建立の場所を探しあぐね悩んでいた、弘法大師の高弟、道雄僧都が、ある夜、まことに不思議な夢を見た。
夢に、神さま仏さまとも思える一人の童子があらわれたのである。
そしてこう告げたのだ、「旧都(長岡京)のはずれ、西山にかっこうの土地がある。求むべし」
そして、その土地を夢の中に描いて消え去ったのである。
さっそく出かけた道雄。
西山をバックに、前には小畑川が流れ、小さいながらも盆地を形づくっている夢の中の土地は、道雄は「これこそ聖地なり」とつぶやいたほどの景勝の地であった。 すると、
「よくぞ、探しあてた。」この地こそ、釈尊の一番弟子・摩訶迦葉仏の霊がインドから訪れ、説法した旧知であり、観世音菩薩の法窟でもある」
との童子の声が聞こえたかと思うと、あたり一面に瑞光が輝きわたり、シイの木の上に、千手観音が現れた。
「こんな、不思議なことは、これまでみたことも、聞いたこともありません。あなたはいったいどなたですか」
道雄は、童子にむかって、ていねいにたずねた。
「われは、この山を守護する妙見菩薩である。寺院を建立したあかつきは、千手観音を本尊としてあがめ、われを山上の走田神社に合祀せよ」
こう言い残すと、童子はこつ然とすがたをけした。
まもなく、道雄の手によって、この地に、約八百七十平方メートルもあるとてつもない大寺院が建てられた、応仁の乱の戦火で消失したと伝えられる「海印寺」である。
一方、海印寺建立よりずっと以前にこの地に建てられた走田神社は、天孫光臨のさい、天照大神に従って地上におりた天津児屋根命をまつる神社だが、”童子”の言葉にしたがって、妙見菩薩もまつることになった。
明治の、神仏離合から、寂照院に移されるまで、神仏が仲良く合祀され、山の守護に、五穀豊作に幾多の霊験を現し、近在の信仰を集めてきたという。
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2004年12月29日
揚谷寺 柳谷観音
仏教 真言宗の開祖 弘法大師 空海が、乙訓寺の別当(管長)に任じられていたときのこと。
お大師さまは柳谷の山中に霊験あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩がまつられていることを知り、人里離れた柳谷に参けいにやってきた。弘仁二年(811)のことである。
山中にわけいったお大師さまは、岩の間をつたって流れ落ちる清水のそばで、二匹のサルが清水をすくっては、目のあたりに流し、なにごとが念じている様子にふと足をとめた。
「サルの母子らしいが、いったいなにをしているのか」
不思議に思って、近づいてみると、子ザルは両目がつぶれていた。それをなおそうと母ザルは、お大師が近づいたのも気づかずに、懸命に子ザルの目を清水で洗っていた。
「けものながらなんとうるわいいことよ」
ひどく感動したお大師さまは、しばらくの間、柳谷に参って母子ザルのために祈とうを捧げられた。
その間、サルの母子は毎日、清水のほとりに姿を見せ、目を洗う”作業”を繰り返していたが、お大師さまが参って十七日目のこと。
祈とうの法力が、清水に宿ったのか、子ザルの目が開いた。
サルの母子は「きゃっきゃ」とうれしそうな声をあげ、木から木へ飛び移って山中深く姿を消した。
「サルにも霊験のあった水、人間にもきくようにすれば、多くの人が眼病から救われるにちがいない」
お大師さまは、衆生済度を思い立った。さらに、十七日間の修法を行い、法力が宿るといわれる独鈷で清水をかきまわし、熱心な加持祈祷を続けた。そのあいまに「十三仏」を彫り、祈った。すると清水はなおも、こんこんとしたたり落ち、満願の十七日目には目を病む人が、その水で洗うとたちまち治ったという。
万人にきく”霊水”になったわけだ。
それを聞いた村人たちが、霊水を求めて、柳谷にやってきた。
柳谷観音の「ご香水」、”独鈷水”のいわれである。
み仏の なびく柳の谷水は 汲むに老いせぬ 薬なりけり
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